【紹介】平野啓一郎「Re:依田氏からの依頼」『透明な迷宮』

時間の進みが遅くなればいいのに、そう願ったことはある。締め切り前、待ち合わせ前、布団から出られない朝。しかしそれが突如一方的に襲ってきた時の果てしない苦悶までは、想像していなかった。


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平野啓一郎「Re:依田氏からの依頼」『透明な迷宮』

最初「Re:依田氏からの依頼」というタイトルを見た時、「依田氏からの依頼」という作品の「続編」なのかと思ったが違った。メールを受け取り、依頼を受けた大野がそれを遂行し、成果物を返したということであった。

大野は小説家で、依頼主は劇作家として大きな業績を残している依田氏。依頼内容は、依田氏の話を小説にしてほしい、というものだった。妻と担当づてに彼の奇妙な体験を聞いた大野は、当初あまり気乗りしなかったが、結局依頼を受け物語を綴っていく。目の前に現れた題材の複雑さと珍しさに、つい小説家としての意欲が働いたのではないかと私は思う。

大野が書いた文章には、依田氏の言葉だけでなく、依田氏の奥さんや大野自身の補完も混ざっており、その純正さはかなり失われているのだが、曖昧ゆえに魅力が掻き立てられているともいえる。

依田氏は舞台女優の涼子と肉体関係を持っていた。私は彼女の美しさの描写が好きなのだが、さすがにここはほぼ依田氏の言葉なのではないだろうか。「大理石のように冷たく冴えた鼻梁」「胡蝶蘭の側花弁のように白くしっとりとした頬」など。舞台で大きな存在感を放ち続けたにもかかわらず、涼子は「生涯、神秘的に無名であり続けた。」才能に恵まれ、実力を持った人でも、名声を得ないこともあるのだよなあ。

破綻はたしかに些細な違和感から始まる気がする。涼子と依田氏は、2人で空港から格安タクシーに乗る。車内で突然、涼子が依田氏にしなだれかかる。それをきっかけに気が触れたのか、運転手が暴走する。大きな事故となり、4人の死者が出た。4人のうち2人は、運転手と涼子であった。乗車以前も含め、あらゆることが積み重なって、歯車が狂ってしまったのである。

やがて、依田氏は彼の意識が汲み取る時間だけが、どんどん長くなっていることに気づく。自分の体も、周りの景色も人も、何もかもが遅く感じる。仕事どころか、生活さえままならない。事態は悪化するばかりで、彼は永遠とも思える苦しみに悶える…。

今や彼の思索の大部分は誰にも、彼自身にも汲み取れない。随分症状が改善した結末部でさえ、1, 2分が2時間に感じられている。彼が過ごすのはどのような世界なのだろう。果てしなく脆いのに、図太く続いていくすべての事象。彼が治ることはない気がするのが、この物語の魅力だと感じた。

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