(小説)伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』

伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』(河出書房新社、2014年)

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アニメ版のほうは以前紹介させていただいた。今日は小説版について。クリスマスイブに屍者の帝国って、なんか退廃的に聞こえるだろうか。

さて、やっぱりアニメ版と全然筋書きが違った。アニメの方は、主人公ワトソンが屍者化した研究者の親友(=フライデー)の魂を呼び起こそうとするのが主筋だった。しかし小説の方ではフライデーはただの支給物。もともと何の思い入れもない。でもアニメ同様処理能力は高いし、旅は共にするし、のちに書き連ねた「ワトソンの物語」は「フライデーの物語」としてインプットされて、彼は思考をもつようになる。

いわば「生者2人の物語を復活させようとする」のか、「生者1人の物語をインストールして、ある屍者が生者になる」のか、という違い。実際前者の方がこの膨大な情報量の作品をなんとか2時間のアニメにまとめる術があったと思うし、フラグをとりこぼしていたり原作と全然違うことも事実。でも、アニメ版はアニメ版で良さがある。

制作上の都合とか尺のこととかそりゃ色々あるだろうけど、やっぱり別メディアのものは「同じ枠内の違う作品」として楽しむ手は持っておくべきだなあ。例えば原作小説が好きだと映像化された時「原作通り」を期待してしまうけれど、大抵そうはいかない。もしそれに拘って作られていて、クオリティが高ければよろこびゃいいんだけども。あと単に違いを指摘するのはおもしろいしやっていいとおもうんだけども。

以下、小説を読んでて思ったことをちょろっと書いていきます。

フライデーが書いているところの前(第一章扉裏)には、次のように書かれている。(仕掛けだ。)

——Rebooting the Standard Cambridge ENGINE.4.1.2…check……OK.

——Rebooting the Extended Edinburgh Language ENGINE.0.1.5…check……OK.

※Rebootは再起動の意味。

『ハーモニー』アニメ版しか観れていないけど同じ波動を感じた。機械の言語をエモく感じるようになるなんて、大学入学前には想像できなかったな。

この本、プロローグまでは故・伊藤計劃さんが、第一章以降は円城塔さんが書かれている。アイデア+プロローグから書き継いだ形だ。だからワトソンと伊藤さん、代筆係のフライデーと円城塔をつい重ねてしまって、伺い見れる2人の思いに胸がいっぱいになる。

時代としては、「鉄道網、航路網、通信網」に覆われ始め、一気に世界が速くなった時代。パソコンとかスマホじゃなくてスチームパンク的な「屍者技術」が最新のテクノロジーだ。禁断だろうが何だろうが、可能な技術は必ず実現される、という話が繰り返し登場するが、他にそういう技術で思いつくのは核かなあ。(いくらエネルギーなどの「良い使い方」でも、廃棄物処理の見通しがまともに立たないうちに使うのはどうなん?派なので、核もタブーだと丸屋は思っている。)

登場人物。ワトソンなど『ホームズ』関連、エジソンや『未来のイヴ』のハダリーなど『フランケンシュタイン』関連はアニメ版にも出てきていたが、第二部日本編に関しては、小説の方が登場人物が顕著に多い。同時に人に付随する物語のボリュームも、ということになる。山澤静吾だけじゃなく寺島宗則、川路利良、大村益次郎とか出てきて、日本側の思惑もがっつりある。大村は半屍者化したりなんてしている。

グラントに協力したりもする。そして事の最後、ハダリーの思惑の真相を暴くワトソンが、なんか探偵っぽい。「事件前、あなたは黒いハイヒールを履いていた。今は白い靴に履きかえている。…」とかもろに(303頁)。このときクラソートキンはいないし、考えるための情報と役割を備えたのは確かに彼しかいなかったが、なんか『ホームズ』みを感じた。のちになるのは探偵の「相棒」だけども。

第三部は激アツで、ザ・ワンが全生者の屍者化を実行しかけてそれを阻止するわけだけれど、『フランケンシュタイン』読んでると重なるところが大きいですね。怪物にも幸せになってほしいな。壮大な物語が畳まれていく。エピローグで主人公は日常に戻って途方に暮れているけれど、我々も読中と読後ではおんなじ気持ちになる。

 

『屍者の帝国』は新型屍者について探っていく話だ。同時に、「思考能力がある死者」「人とそれ以外」について考え続ける話でもある。伊藤計劃さんの作品にはいつも「言葉と思考」「人は言葉(物語)なしに成り立たない」「生とは?」…といったテーマがあって、それを円城さんが見事に受け継がれたのかなあと思う。

最後に、どうしてこんなにたくさんの登場人物に元ネタがあるのか、ということについて。私は「人が持つ物語」というテーマをメタに?表現したかったのかなと思った。固有名詞がそれぞれに文学作品や史実を担い、この作品に驚くほどの厚みを、途方もない濃さを生み出している。人が人と一緒にいて、言葉(心)を交わす時、それは物語を現在進行形で紡ぐと同時に、背負っている物語の一端を共有することでもあるのではなかろうか。

 

てなかんじ。また書き足したいことがあれば戻ってきますね。作品は思考の場ともとれますね。こういうサイトの記事だったり、動画サイトのコメントだったり、SNSなどがそこに重なって現れてはいるけど。すぐれた方も私みたいなポンコツも、同じ作品について考えられるわけなので。たのしいね。また来年!

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